2026.06.04

がん治療を支える運動の力。プレハビリテーションと倦怠感への対策

リビングでストレッチを行う夫婦

がんの診断を受け、治療への道のりを歩み始めるとき、多くの方は「なるべく安静にして、体力を温存しなければならない」と考えがちです。

しかし、近年の腫瘍学(オンコロジー)の世界では、その常識が大きく覆されています。

現在、運動は単なる健康習慣ではなく、がん治療の副作用を軽減し、治療効果を最大化するための効果的な手段として位置づけられています。

かつては、治療中や手術前後の運動はリスクが高いと敬遠されてきました。

しかし現在は、適切な運動療法を行うことは身体機能の維持だけでなく、精神的な健康や生活の質(QOL)の向上に極めて有効であることが証明されています。

今回は、がん治療を成功させるための「プレハビリテーション」の概念から、多くの方を悩ませるがん関連疲労(倦怠感)への対抗策、そして副作用を抑える筋肉の役割まで詳しく解説します。

ヨガマット、運動靴、タオルなどが床に置かれている様子

手術や抗がん剤に備える「貯筋」

がん治療において、最初に行われることが多いのが手術や化学療法(抗がん剤治療)です。

これらはがんにとって有効な手段ですが、同時に身体にとってのダメージともなります。

そこで注目されているのが、治療が始まる「前」の準備期間に行う運動、すなわち「プレハビリテーション(プレハビリ)」です。

リハビリテーションが「落ちた機能を戻す」ことであるのに対し、プレハビリは「あらかじめ体力を上積みしておく」ことを目的としています。

特に、手術までの数週間に筋力トレーニングを中心とした運動を行うことで、術後の合併症リスクが大幅に減少することが報告されています。

これは、医療やリハビリの現場などで「貯筋(ちょきん)」という言葉で表現されることもある取り組みで、その重要性が広く認識されています。

筋肉は単なる運動の器官ではなく、アミノ酸を貯蔵し、免疫物質を放出する巨大な臓器でもあります。

治療前に筋肉量を維持・向上させておくことは、不測の事態に備えるためにも有効なのです。

回復スピードを左右する準備運動

プレハビリテーションの効果は、数値としても明確に現れます。

例えば、肺がんや大腸がんの手術を受ける患者様が、手術前の2週間から4週間に集中して有酸素運動と筋力トレーニングを行った場合、術後の入院期間が短縮され、日常生活への復帰(社会復帰)が早まるというデータがあります。

これは国内外の多くの臨床試験(JCO誌に掲載されたPREHAB試験など)で報告されているものであり、現代のがん治療において手術の成功を支える重要な一翼を担っています。

具体的には、深呼吸を伴うストレッチや、少し息が上がる程度のウォーキング、スクワットなどの下半身を鍛えるメニューが推奨されます。

手術前は精神的な不安も大きく、何もしないでいると「負の思考」に陥りやすい時期です。

そこに運動という具体的な目標を持つことは、自分自身の力で病気に立ち向かっているという自己肯定感を高めることにも繋がります。

医師や理学療法士などの専門スタッフと相談しながら、現在の自分に最適な体力向上プランを立てることが、治療成功への第一歩となります。

目覚まし時計とアラームが設定されたスマートフォン

がん関連疲労と運動の意外な関係

がん治療中、多くの方が経験する症状のひとつに「がん関連疲労(CRF)」があります。

これは、普段の疲れとは違い、しっかり休んでもなかなか回復しにくい、深い倦怠感として感じられることがあります。

治療の影響だけでなく、がんそのものによっても起こるため、誰にでも起こり得る自然な反応です。

そんな中で意外に思われるかもしれませんが、実は軽い運動を取り入れることが、疲労感の軽減に役立つということが知られています。

ただし、無理をする必要はありません。

散歩やストレッチなど、できる範囲で身体を動かすことで、血流が良くなり、気分がほぐれ、少しずつ動ける感覚が戻ってくる方も多いです。

この現象は「運動のパラドックス」と呼ばれることがあります。

休むだけでは回復しにくい疲れでも、やさしい運動を続けることで、日常生活が少し楽に感じられるようになることがあります。

運動は、治療中の生活を支える心強い味方になり得ます。

大切なのは、自分のペースで、できることから始めることです。

ほんの数分の動きでも、積み重ねることで確かな変化につながります。

体調に合わせて、無理なく続けられる方法を一緒に見つけていくことが大切です。

「あえて動く」ことで疲れを散らす

がん関連疲労に対して取り入れる運動は、激しいものである必要はありません。

一般的には、低強度から中強度の有酸素運動を、無理のない範囲で継続する方法がよく紹介されています。

たとえば、週に数日、10〜30分ほどのウォーキングを目安にするなど、日常に取り入れやすい形から始められます。

軽い運動を行うことで血流が良くなり、体内の代謝が整いやすくなるとされています。

また、細胞のエネルギー産生に関わる仕組みが活発になり、徐々に疲れにくさを感じる方もいます。

体調が優れない日は休息を優先し、動けそうだと感じる日は短時間でも体を動かしてみる。

このように、その日の状態に合わせて調整しながら続けることが大切です。

数分の散歩でも、積み重ねることで体調管理に役立つことがあります。

なお、発熱がある場合や強い貧血が疑われる場合などは、無理をせず医療者に相談することが重要です。

体調が安定しているときに、できる範囲で運動を取り入れることが、日常生活の過ごしやすさにつながることがあります。

脳と心を整えるセロトニンの効果

運動の効果は、身体的なものだけではありません。精神的な健康、つまり心のケアにおいても大きな力を発揮します。

運動を行うと、脳内で「セロトニン」や「エンドルフィン」といった、幸福感や安定感をもたらす神経伝達物質が分泌されます。

がんの診断や治療は、患者様やそのご家族に大きなストレスと不安をもたらします。

これにより、夜眠れなくなったり、気分が落ち込んだりする状況は珍しくありません。

有酸素運動は、こうした精神的なストレスに対する緩衝材の役割を果たします。

外を歩き、日光を浴び、一定のリズムで身体を動かすことは、自律神経のバランスを整え、睡眠の質を向上させます。

心の状態が安定することは、治療に対する前向きな姿勢を維持し、QOLを高める上で不可欠な要素です。

筋トレを行う男性

抗がん剤の毒性と筋肉量の相関性

最新の臨床研究において、筋肉量と抗がん剤の副作用には密接な関係があることが明らかになっています。

同じ体重の患者様であっても、脂肪が多く筋肉が少ない方(サルコペニア肥満など)は、筋肉量が多い方と比較して、抗がん剤による強い副作用が出やすい傾向があります。

これは、多くの抗がん剤が筋肉量を基準に設計されているわけではなく、身長と体重から算出される体表面積に基づいて投与量が決定されるためです。

筋肉が少ない身体では、薬剤の代謝バランスが崩れやすく、結果として血中の薬剤濃度が過剰になり、毒性が強く現れてしまうと考えられています。

つまり、筋力トレーニングを行って筋肉を維持することは、抗がん剤という強力な薬を受け止めるための器を大きくすることに繋がります。

しびれや転倒を防ぐ

特定の抗がん剤治療では、末梢神経障害(手足のしびれ)という副作用が起こることがあります。

このしびれは、歩行時のバランスを崩し、転倒や骨折のリスクを高める原因となります。

こうした状況下で重要なのが、体幹(インナーマッスル)と下半身の筋力を維持することです。

バランス能力を高める運動や、椅子を使った簡単なスクワットを継続することで、しびれがあっても安定して歩ける能力を保つことができます。

また、筋肉を動かす刺激そのものが、神経の回復を助ける可能性も指摘されています。

副作用による後遺症を最小限に抑え、治療後も自分らしい生活をスムーズに再開するためには、治療中からの計画的な筋力維持が欠かせません。

骨を守り、代謝を高める運動の力

乳がんや前立腺がんの治療で行われるホルモン療法は、副作用として骨密度の低下(骨粗鬆症)を招くことがあります。

骨がもろくなると、ちょっとした転倒でも骨折しやすくなり、日常生活に大きな制限がかかってしまいます。

骨を強くするためには、カルシウムの摂取や栄養管理に加え、骨に適切な負荷をかける運動が不可欠です。

重力に対して身体を支えるウォーキングや、自重を用いたレジスタンストレーニング(筋力トレーニング)は、骨芽細胞を活性化させ、骨の強度を維持する働きがあります。

また、筋肉量を保つことで基礎代謝が上がり、治療中に起こりやすい体重の増減をコントロールしやすくなるというメリットもあります。

室内でストレッチする女性

主治医に確認すべき3つのリスク

がん治療中の運動は有益ですが、何でも自由に行ってよいわけではありません。

安全に運動を継続するためには、必ず主治医や看護師、理学療法士などの医療スタッフと連携し、現在の自分の状況を確認する必要があります。

特に以下の3つのリスクについては、運動を開始・継続する前のチェックが必須です。

・血液データの変動
白血球数が極端に少ない(感染リスクが高い)時期や、血小板数が減少している(出血しやすい)時期は、強度の高い運動や接触を伴うスポーツは控える必要があります。
・骨転移の有無
がんが骨に転移している場合、特定の部位に強い負荷をかけると病的骨折を起こす恐れがあります。
どの程度の負荷までなら安全か、専門医の判断を仰いでください。
・心機能や呼吸機能の状態
一部の抗がん剤は心臓に影響を与えることがあります。
息切れがひどい、胸に痛みを感じるなどの症状がある場合は、運動を中断し、精密な診療を受ける必要があります。

骨転移や血小板減少時の注意点

運動はがん治療中の体調管理に役立ちますが、体の状態によっては、少し工夫しながら行うことが大切です。

たとえば、血小板が少ない時期には、転倒したときやぶつけたときにあざができやすくなることがあります。

そのため、ウォーキングをする場合は、足元が安定した場所を選んだり、滑りにくい靴を選んだりすることで、安心して続けやすくなります。

また、骨転移がある方の場合は、運動の種類や強さを調整することで、無理なく体を動かすことができます。

水の浮力を利用した運動や、座ったままできるストレッチ、筋肉に大きな負担をかけないトレーニングなど、体にやさしい方法を検討しましょう。

こうした工夫は、医療者と相談しながら進めることで、より安全に取り組めます。

自分の体調や状態に合わせて運動を調整していくことは、長く続けるための大切なポイントです。

小さな工夫を積み重ねることで、無理なく体力づくりを続けることができます。

無理のない範囲を見極める目安

運動の強度は「やや楽」から「ややきつい」と感じる程度が一般的です。

これを自覚的運動強度(ボルグスケール)と呼びます。

具体的には、運動をしながら隣の人と会話ができる程度の息苦しさが目安となります。

もし、運動後に激しい痛みが出たり、翌日まで強い倦怠感が残ったりする場合は、強度が強すぎるサインです。

その場合は、頻度を減らすか、時間を短くして調整してください。

がん治療中は、日によって体調が大きく変動します。

「昨日は30分歩けたけれど、今日は5分でやめておく」という柔軟な判断こそが、最も賢い運動の続け方です。

広場をウォーキングする高齢夫婦

日常生活をリハビリに変えるコツ

運動を「ジムに行ってトレーニングすること」と定義してしまうと、治療中で体力が落ちている時には心理的なハードルが高くなってしまいます。

大切なのは、日常生活のあらゆる動作を軽い運動として捉え直すことです。

例えば、テレビのコマーシャルの間だけ足首を回してみる、歯を磨いている間に少しだけ踵を上げてみる、あるいは家の中を歩くときに背筋を伸ばして歩幅を広げてみる。

これら一つひとつが、立派なリハビリテーションであり、身体機能の維持に寄与します。

家事や散歩といった日常の活動量を減らさないこと自体が、がん治療における重要な運動療法の一部であると考えてください。

1日5分から始めよう

世界的なガイドライン(米国スポーツ医学会など)では、がんサバイバー(がんを経験した人)に対して、週に150分の中強度の有酸素運動と、週に2日から3日の筋力トレーニングが推奨されています。

しかし、最初からこの目標を達成しようとする必要はありません。

まずは「1日5分」から始めてみてください。

それができたら「朝晩5分ずつ」に増やし、少しずつ時間を延ばしていきます。

体調が良い週もあれば、悪い週もあります。

調子の良い時にまとめて行うよりも、低強度でもいいので「週の合計時間」を意識して、細切れに積み上げていく方が、身体への負担が少なく効果的です。

病院のスタッフと相談して、自分の生活リズムや病状に合わせた、自分だけのプログラムを作ってみるのも良いでしょう。

運動しない日があっても大丈夫

運動を続けるうえで大切なのは、「できない日があっても気にしすぎない」という姿勢です。

がん治療中は体調が変わりやすく、予定していた運動ができない日があるのは自然なことです。

それを自分の努力不足と考える必要はありません。

運動は、生活の質を高めたり、治療を支えるための一つの方法です。

義務のように感じてしまうと負担が大きくなるため、体調に合わせて柔軟に取り組むことが大切です。

調子が優れない日は休息を優先し、動けそうだと感じる日に少しずつ再開する。

その積み重ねが、無理のない継続につながります。

ご家族がサポートする場合も、強く促すのではなく、「今日は気分が良ければ少し歩いてみる?」といった穏やかな声かけが役立つことがあります。

本人のペースを尊重しながら、日常の中で無理なく体を動かせる環境を整えることが大切です。

がん治療における運動は、治療を支える大切な要素のひとつとして位置づけられています。

手術前の準備期から治療中の体調管理、そして治療後の生活再建まで、運動は心身の状態を整えるために役立つ場面が多くあります。

近年のがん医療では、患者さん一人ひとりの状態に合わせた個別化医療が進んでおり、運動についても、がんの種類や治療内容、体力、生活環境に応じて調整しながら取り入れられるようになっています。

まずは、主治医やリハビリスタッフ、看護師に「自分に合った運動方法はありますか」と相談してみることが大切です。

専門職と話すことで、無理のない範囲で取り組める方法が見つかり、日常生活の過ごしやすさにつながることがあります。

軽い運動でも、血流が良くなったり、気分が整ったりと、体調管理に役立つことがあります。

今日からできる範囲で、少し体を動かしてみる。その積み重ねが、治療後の生活をより快適にするための一歩になります。

監修医 医学博士 上羽 毅

監修医

医学博士

上羽 毅

私は医師として日々の診療にあたる中で、患者さんが抱える「治療に対する不安」や「治療への向き合い方」などの声を多く耳にしてきました。
そのような経験から、このサイトでは信頼性を第一に、最新の医学的知見や治療方針をもとに内容を確認・監修しています。専門的な部分を分かりやすく伝えることを心がけ、読者の方が正しい知識をもとに前向きに治療へ臨めるよう願っています。